ちびちび読書中

内田樹センセイの『邪悪なものの鎮め方』をゆっくりと読んでいます。
これはセンセイのブログの一部をコンパイルしたものなので、ここ数年ほぼ毎日センセイのブログをチェックする私には「あっ、これ、読んだ」と思うものが多いのですが、書籍として身体的な感覚を覚えながら読むのはPC画面で読むのとはまた一味違っていて面白いです。
以前カールステン・ニコライが音楽や書籍のデジタル化について訊かれて「僕としては伝統的なフォーマットも残って欲しい。旧東ドイツ出身のせいかもしれないけど(笑)」と言っていたのを思い出します。

さて、昨日読んだ中に以下のような記述がありました。

 「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得ている人は、いずれ「自分のような人間」がこの世からひとりもいなくなることを願うようになるからである。その願いはやがて「彼自身の消滅を求める呪い」となって彼自身に返ってくる。
 何度も申し上げていることであるが、もう一度言う。
 道徳律というのはわかりやすいものである。
 それは世の中が自分のような人間ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を贈るということである。
 世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるタイプの人間というのは自分自身に呪いをかけているのである。
 この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。(149〜150頁)

いやー、これ、最近起きたちょっと気が滅入る出来事を消化するのにと〜っても役立ちました。内田センセイ、ありがとうございます!

時として自分の身勝手な怒りを見境なく他者にぶつける人と出くわすことがあります。
そういう人と出くわすたびに「どんな状況でもこれは絶対にやっちゃいけない」と自戒できるので、不快にはなるのですが同時に反面教師にもなるので、ありがたいことと思うようにしています。
がー、そういう機会が相手を違えて立て続けに起こるとさすがに気落ちします(苦笑)。

怒りは自分の思い通りに物事が運ばなかった時に沸き起こる負の感情で、他者が介在する場合には直接その他者に怒りをぶつけることもあれば、その他者とは異なる第三者にぶつけることもあります。(ですよね?)
まあ、見知らぬ他人が「お前のやり方が気に入らない」と一方的にこちらに怒りをぶつけてくる時には「まあ、なんて嫌な人なんでしょ!」と無視すればいいだけです。
しかし、普段交流のある人が私とは違う人間に感じている怒りを私にぶつけてくる時には、最初は「まあ、仕方ないか」と話を聞いているのですが、それが延々と続くとノンキに「仕方ないか」とは思えなくなってしまうわけです。

常に一定レベルの怒りを維持できる人を観察していると、どうも上の「自分で自分に呪いをかける」タイプのように思えます。
怒りで自分に呪いをかけ続けているうちに持て余すようになって、近しい第三者にも怒りのお裾分けをしちゃうような気がします。
彼らが求めているのは「同意」と「慰め」。
でも当事者ではない第三者にとって彼らと同じレベルの怒りを感じることは不可能だし、「そのうち怒りも治まるだろう」と思って聞いているうちに、一向にレベルダウンしない彼らの怒りに対し別の怒りを感じるわけです。
第三者から同意も慰めも得られなくなった彼らは、自分が誘発した怒りにもかかわらず、今は怒れる人と化した第三者に対しても怒りを覚え、彼らの怒りは更にパワーアップ(苦笑)。
あ〜あ、見事な怒りのスパイラルの完成ですわ……。

私だって不快な出来事を仲良しさんに話して怒りや不快感を治めることがあります。
でも延々と同じ話をしないように努力しています。
っていうか、異なる仲良しさんに1〜2度そのネタを話すと負の感情が徐々に消えるので、何度も反芻する必要性を感じないわけです。
(みんな、嫌な話に付き合ってくれてありがとね〜! みんなの低反発ウレタン・モード、すごく助かっているよ〜!!)
大体、近しい他者に常に「同意」と「慰め」を求めていたら、お互いに身が持ちませんよ。

意見が違って当たり前。
物事が思い通りに運ばないなんて当たり前。
自分の負の感情を消せるのは自分だけが当たり前。
人を不快にしないのが当たり前。
笑う門には福来るのが当たり前。
そう思っていたら、怒りなんて持続できないと思うのですがねぇ……。

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