人それぞれだよねぇ

昨日、とある宗教では誕生日も占いもNGという事実を
初めて知ってかなり驚きました。

そこで調べてみたら、こんな記事を発見。

(↑この記事は二部構成の前編で、上の題名はサブタイトル)

フツーに全く興味がないので、そもそも調べもしなかったのですが
上の記事を読んで、最低でも月に一度の割合で
勧誘の女性が自宅に来る理由が理解できました。
去年くらいから同じ団体の異なる女性も来るようになり
勧誘ダブルになった時点で面倒で対応するのをやめました。

誰がどんな神様を信じようが
信心を無理強いしない限りは気にしません。
基本的に「唯一無二の神」という概念がない私は
世の中のすべての神様が同業者同士で連絡を取り合い
仲良くしているといいなってだけ。

どこの国に行っても仏教じゃない教会や寺院の人に
優しくされることが多かったこともあり
20代半ばくらいにはそんなふうに思うようになっていました。

今でも鮮明に覚えているのが以下の2つの出来事。

サンタフェ近くのネイティヴ・アメリカンの居住区で
白人の同行者二人はNGで、私だけ彼らの教会の中に案内されました。
頼んでもいないのに「中を見なさい」と。
このときは「同じモンゴロイドだからかな」ぐらいに思っていました。

バチカンでは、サン・ピエトロ大聖堂に入った途端に
泣きたくないのにいきなり涙がポロポロこぼれてきたとき
日曜のミサの信者席の縄のパーテーション際に立っていた教会の人が
抱きしめてくれて落ち着いたので「ああ、優しい人だな☺️」と思いました。

しかし、このときの通訳ガイドさんが驚いて
「あの人たちは異教徒に絶対に触れないのに😱」と言ったのを聞いて
「あらら、彼は仏教徒に触れちゃいましたね😓」と苦笑いした記憶があります。

もちろん人間をダメにする物事は世の中にたくさんあるし
ルールで禁じないとうっかり手を出しちゃう人もいるのでしょう。

でも強烈なタガをはめた信心や、厳しい禁忌はナンセンスです。
想像力の翼を広げられるだけの緩やかで最低限の禁忌じゃなきゃ
人が持っている創造性がどんどん萎縮しちゃう。

フレディが毛嫌いしていた宗教の権威主義に通ずる部分ですな、これって。
(『追憶のフレディ・マーキュリー』に詳しく書かれてます)

縛られたがりのドMの人は
どうぞ、どうぞ、ご自由に禁忌に縛られ倒してください。
それがあなたの幸せですから。

私は何かあったら微調整できる心の“遊び”を必要とするタイプなので
このまま、仕事は厳しく、それ以外はゆる〜く自由奔放で行きます✌
それが私の幸せですから。

あ、全然話は違いますが、この映画、早く観たい!!!

映画『新解釈・三國志』特報【12月11日(金)公開】



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