風刺と冒涜の境界線


できるだけアップデートを心がけつつも
気を抜くとやっぱり放置プレイ…でお馴染みのアタイです。

今日のお題はこれ。

はい、昨日発売されたCharlie Hebdo最新号の風刺画(表紙)。

フランス語は不得意ゆえエキサイト翻訳で仏→英で翻訳したところ
「Tout est pardonné」は「Everything is excuse」(すべては弁解)と
出てきたのですが、イスラム教への冒涜と反対声明を出したジャーナリストの
国際団体を報じる記事では「すべては許される」と訳されています。
あれれ‥‥

でー、試しにエキサイト翻訳で「everything is excused」を仏語訳したら
「tout est excusé」となりました。
あれれれ‥‥‥

私の勝手な解釈では「すべて言い訳だよ〜ん」と言って
表現の自由を支持する「Je suis Charlie」のカードを預言者ムハンマドが
掲げている…方が風刺として成り立つかと。
「すべては許される」だと風刺として面白くない思うのは私だけ?

だって「表現の自由」がネタですよ。
ネタに沿ったら「すべては許される」と“発言への赦し”に重きを置くよりも
(波田陽区風に)「ぜ〜んぶ“言い訳”ですから〜」(お好みで“てへぺろ”追加)と
“発言が何か”に重きを置く方が理に叶うと思うんだけどな〜。

そんな個人的な感想はさておき……

風刺画というのは辛辣な言葉とカリカチュアの組み合わせ。
ネタとして取り上げる対象を情け容赦なく批判するのが基本的手法だと思うので
下品さが加わるのは仕方のないことだと思います。
最終的に風刺画の許容ラインを決めるのは
個々人の好みと風刺に対する理解力の差異だと思うんですよ。

辛辣な言葉と特定のネタを取り上げて「冒涜だ!」と声高に叫ぶのは
自分の偏狭性を示すだけのような気がしますわ。
ホント、不快なら無視すればいいだけですから。

もちろん、自由だからと言って何でもかんでもOKというのは疑問だし
ある程度の自制心は社会的生物として必要だと思います。
ただ、その自制心だって属する社会の文化背景で異なるわけで
風刺と冒涜の境界線というのは千差万別となるわけですよ。

出版人として攻撃されるのが嫌なら、毒にも薬にもならない情報を
ただただ垂れ流して保身に徹すればいいだけだし……。

風刺というのは、普段思っていても声に出して言えないことを
面白く可笑しく代弁する、一種のガス抜き効果があると思うし
そこに表現の面白さを見出す表現者もいるわけですよ。
匿名で見ず知らずの他人を嬉々として攻撃する輩と比べたら
自分が誰かをハッキリと示す姿勢は潔いと思います。

言論の自由、表現の自由、風刺と冒涜の境界線……
考え出したらどんどん深みに嵌っていくので
納得できる結論は永遠に出せないと思うけど
一つだけ言えることは、信者の命を蔑ろにするような宗教や
宗教指導者たちを私は信用できないし、受け入れることも無理です。
(上の文章「宗教」を「国家」に置き換えても成り立つなぁ)

蛇足ですが、一番上のフランス語翻訳の違いに気づいたとき
翻訳を生業にする自分への戒めとなりました。
意訳することで翻訳文の読者の理解を促すことは確かにあるけど
文脈の内側から食み出すような意訳は限りなく誤訳に近いな、と。
いやー、ほんと、気をつけないと!



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