多様性という脅し

OZworld / MIKOTO 〜SUN NO KUNI〜 feat. 唾奇 & Awich

今年に入ってから移動中に再び音楽を聞くようになりました。
ここ数年は何も聞かずに移動することがほとんどだったせいで
「これ、好き」という曲と巡り合うことも少なかった気が……。

上のOZworldくん、ここしばらくけっこうな頻度で聞いています。
日本語と英語が淀みなくつながる心地よさが最高。
日本の音楽がどんどん成熟して、若い人たちの感性を経て
独自の進化を遂げているのが本当に嬉しい♪

そんな状況で生まれくる音楽だからこそ
再び聞きたい、浸ってみたいと思ったのかも知れません。
いや、ほんと、今の音楽、めっちゃ面白いですよん。

さて、今日のタイトル。

多様性を否定しているわけではありません。
ただ、闇雲に「多様性を受け入れろ」と発言する人が多すぎて
「多様性」という言葉が水戸黄門の印籠のようになっている気がします。

人はそれぞれが異なるものだし、その人が持つ特徴はその人の個性です。
それこそ「千差万別」という言葉が示すように
声高に「多様性を!」と言わずとも、人は自然に差異を受け入れています。

それでも未知の差異を拒むのは
単に思考の柔軟性と知識がないからであって
知識が増えれば思考の柔軟性が増すはずです。

思考が硬いままで柔軟になれない人は放っておきましょう。
そういう人は端っから他者を理解する気などないのですから。
そういう人はいつの時代も、どの世代にも、一定数存在するし
人間の全体バランス的にきっと存在意義があるのでしょう。

そういえば、物事を理解する助けになるのは
「差異」を見つけるのではなく、「共通項」を見つけることだと
どこかで聞いたことがあります。
共通する多くの事柄との対比で「差異」が浮き彫りになる、と。
(科学的アプローチだったかなぁ……うろ覚えだ)

差異にばかり目を向けていては多様性の本質を見失う気がしますね。
木を見て森を見ずってこと。
人はみな異なるとは言え、共通項は確実にあるわけで
それが存在するからこそ、他者を理解できるわけです。

要は、自分と他者の対比の中で共通項を見据えつつ
多くの他者とどうも異なるらしい自分らしさを自覚すれば
思考の柔軟性が高まって、他者に優しくなれるんじゃないかな、と
いうのが最近よく考えていることです。

思考の柔軟性に年齢は関係ありません。
決まり切った区別や先入観に安心する若者もいます。
私みたいに世の中の先入観とは違う感覚の還暦女子もいます。

何らかの違いを認めてほしいときに
多様性を印籠のようにかざすのではなく
頭を柔らかくして、個々人の差異に目を向け
それを受け入れてちょうだいね…というのがベストかも。

最近、「多様性」という言葉が好きじゃないんです。
誰もがひれ伏する印籠のような言葉になっていて
誰も文句が言えないからこそ、人の結びつきを破壊する気がして……。



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